特別講演▼要旨

 


ファジィ                 景観とは何か(その2)

FUZZYの思想            向殿政男 MASAO MUKAIDONO

Fuzzy as a Philosophy                                                元日本ファジイ学会 会長

                        日本景観学会理事

                        明治大学理工学部教授

 

 

 


 ゆとり、柔軟、創造、更には寛容、個性など、これらの優れて人間的な言葉は、“あいまい”に深く関連している。ところがこれまで、科学技術の分野は勿論のこと、多くの分野で、“あいまい”なことは、いいかげんなことに繋がり、極力さけるべきであると考えがちであった。しかし、必ずしも悪い意味ばかりではないのは明らかである。第一、いいかげんは、元来、“丁度良い加減”を意味していたはずである。極端を排し、“良い加減”な落としどころに関連した曖昧さは、ファジイ(Fuzzy)理論が初めて科学技術の対象として取り扱おうとした曖昧さそのものである。

 ファジイ理論は、これまで簡単な家電製品の制御から複雑で知的な地下鉄の自動運転の制御まで広く応用されて、その有効性が実証されて久しい。最近は、データの解析や画像の認識から、コンピュータと人間とのヒューマンインターフェイスの設計にまで応用が進み、従来にない新しい情報処理の技術として再認識され出して来ている。このお陰で、ファジイという言葉はすっかり日常用語として根づいてしまっているが、ファジイ理論が目指しているところの本質を知る人は案外少ない。ここでは、ファジイ理論の応用の現場を離れて、その考え方、−ファジイ思考−の基本にあるところのものについて考えてみたい。私たちを取り巻く実杜会の現象は、ご存知の通り曖昧さに満ちている。そこには、実は多くの種類の曖昧さが混在していて、曖昧は一様ではない。その中で典型的な曖昧さとして、二種類有ることに気がつく。一つは、賭で取り扱っている曖昧さで、起きてしまえば(分かってしまえば)イエス(1)かノー(0)で答えられるもので、本来は正解が存在するものである。もう一つが、“彼女は美しい”とか、“私は禿である”とかのように、途中の度合いがあって、または人の主観によって異なっていて、本質的にイエス(1)かノー(0)かで答えられないような曖昧さでる。こちらは絶対的な正解なぞないのである。前者の曖昧さを取り扱う数学的理論が確率・統計であり、300年の歴史がある。一方・後者の曖昧さは、今まで、誤差、雑音などとして排除され科学技術の対象とされて来なかったり、誤って、確率・統計で処理されてきた。ところが、この曖昧さこそ人間と厳密のもの−数学、理論、合理、機械等々−との間の橋渡しをする重要なものであり、人間にとって本質的なものであるとして、この曖昧さを取り扱うべく新しく提案された理論がファジイ理論なのである。なお、ファジイと言う言葉は、羽毛のように境界が曖昧で不明確であると言うことを表す英語から来ている。ファジイ理論が、科学技術の世界に与えたインパクトは大きい。それは、科学技術の世界では、これまでは全てに正解は必ずあると信じてきたのに、ファジイ理論は、次のように宣言してしまったからである。すなわち、我々の廻りを取り巻く現実は正解のない曖昧さそのものであり、正解なぞなくても、曖昧のままでも、そして、時には曖昧のほうが良い場合があると宣言してしまっているからである。曖昧さを避けて通れないだけではなく、知的、創造的システムには、また人間と機械とを含むシステムには不可欠であると宣言しているからである。

 ファジイの考え方のなかでは、次の二点が技術的にも、思想的にも特徴的なところである。すなわち、一つ目は、イエス(1)、ノー(0)の中間の丁度良いところに、または二つの異なった概念の間をぼかした中間の丁度良いところに意味のある落としどころがあると言う点である。二つ目は、意味と形式との間を、または具体的データとその解釈との間を、言い換えれば、幾つかの下位概念とそれらの上位概念との間を、主観と曖昧さを積極的に認めて橋渡しをするという点である。前者のためには、極端を排して、意味を考えながら智恵を出さなければならない。イエス、ノーの両極端は明確で簡単で理論的にも厳密に展開できるが、それは本質ではなく、人間にとって本当に大事なところはその中間に有るという考え方である。異質なものを融合し、異なる二つのものから新しいものを創造するための一つの考え方でもある。後者のためには、お互いの違いを認めつつ、細かいところを捨てて新しい概念を作りだすという創造性を発揮しなければならない。これは、実際のデータから意味を抽出したり、木の集まりから森を眺めるように、個別のものを包含する様な、高い立場、大局的な立場で抽象化した概念を見いだす考え方である。あい対立するものから新しいものを創造するための一つの考え方でもある。

 これらの二つの考え方で見出された結論は、イエス、ノーから見ても、個別と概念との対応から見ても曖昧であるが、ファジイ理論は、これまでの研究内容を眺めれば、上記の思想の下に発展してきている事が分かる。曖昧さというものは、理工系の研究者にとっては排除すべき余計なものであり、社会科学の研究者にとっては、なんとか理論的に捕まえたい対象であり、人文科学の研究者にとっては、当然なもので利用し、味わうものである。ファジイ理論が初めてこれらの間の橋渡しを試みているように見える。一方、情報社会の到来が騒がれ久しいが、情報こそ情(,意味,感性)と報(,形式,道具)との両者を取り扱うべきもので、現在の情報化は、報の方ばかりが、発展しており、このままでは偏った杜会が出現する恐れがある。ファジイの思想は情と報との両者の橋渡しに不可欠なもので、この意味で、理系、文系の分け方は古すぎるだけではなく不十分で、新しく、コンピュータのみを対象とした狭い意味の情報科学ではない、情報系とも呼ぶべき学問分野の出現が望まれる。

 コンピュータを中心とした情報杜会が、もしこのまま私たちに正確さと厳密さとを求め続け、専門分野しか分からないような記号や約東ごとを押しつけるとしたならば、決して人間的で幸せな情報杜会は来ないであろう。あくまでも正確さと厳密さとを要求する機械と、曖昧なことを本質とする人間とを結び付け、人間の立場にたった情報杜会を築くためには、これまでの科学技術を曖昧さを許す方向に拡張して、文系をも融合した情報系の学問分野を開拓していくことが是非とも必要であり、その時、ファジイ理論とその考え方は、重要な役割を果たしているはずである。